農業収入ゼロの百姓が気ままに綴る日々
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チキンラーメン60年 2018/08/27

 過日の新聞にチキンラーメンが発売以来60年になるという記事が載っていた。安藤百福さんが試行錯誤の末、1958年に創出したあのラーメンである。

1960年、一寸法師よろしく京にのぼった僕は、チキンラーメンのお世話になった。130円か40円。どんぶりに入れてお湯を注ぐだけという、まさにインスタント食品の代名詞だった。

下宿仲間と、いかにおいしく食べるか工夫した。近くの市場で卵やネギ、もやしを買ってきた。ただ湯を注ぐだけでなく湯を沸かすヒーターにどんぶりをのせて熱々ですする。

おいしかった。食パンと一緒に食べると、けっこう腹の足しになった。

あのころ京都では学生が大事にされていたように思う。学生服を着ていたから、昨今と違って市民が「学生さん」を見間違えることはない。学生服を着たお客に割引の優遇をしてくれるトン汁屋があった。ご飯つきで一杯40円。この店にもお世話になった。

いま京阪電車のターミナルになっている出町柳は当時、京大、同志社、立命館からほぼ同じ距離にあって下宿や寮が多かった。深夜、屋台のラーメンを食べに来る学生でにぎわった。カランコロンと下駄を鳴らして食べに行くのが楽しみだった。

6月、同窓会のとき久しぶりに歩いてみた。10人で満席になったトン汁屋はもうなかった。かつて市電が行き交った出町交差点はしゃれた店が並んでいた。

時にチキンラーメンを食べてみる。麺に卵を入れるくぼみがあるのが昔と違うくらいだが、あまりおいしいとは思わない。そういえばトリスをコーラで割って飲むコークハイもあのころ学生の間ではやったなあ。


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by shimazuku | 2018-08-27 06:22 | Trackback | Comments(0)

ヒゴタイ&庄原クジラ 2018/08/23

 台風20号の動きが気がかりだ。直撃だと収穫直前の稲が倒れてしまう。19号台風が東シナ海でもたもたしている間に20号が瀬戸内海から日本海に抜けるころには追い越してしまいそうだ。いずれにしても今夜が問題だ。

      *************

 19
日の日曜日、自然観察会で庄原市比和町へ行ってきた。この地で盆花(ぼにばな)と呼ばれているヒゴタイの観察地と自生地を巡った。

 写真では幾度か目にしている。実物をみるのは初めて。観察地は三河内・慶雲寺参道わきにあって、紫がかったブルーの花が風に揺れていた。卓球のボールより少し大きめ。一緒に育てている女郎花の黄色と好対照(写真)。

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 自生地は少し離れたかつての和牛牧草地。ここは周囲を萱に囲まれて色もくっきり。米農家Eさんの所有地で、ササユリと同じように毎年草刈りをしてやらないと2、3年で姿を消すという。ということは、牧草地を管理する人手があったら、広大な丘陵地がヒゴタイの丘になるということ。

 ここ三河内地区は、かつて製鉄用の砂鉄を採取したところに開けた田園地帯。人の手によって地形が大きく変わったところにヒゴタイが根をおろした。九州・阿蘇にも自生地があるというから、絶滅危惧種とはいっても、もともと人の手が入らないと維持できない植物なのだ。

 午前中、三河内で自然観察のあと比和自然博物館へもどってクジラの化石を見せてもらった(写真)。ガイドは博物館の進藤館長。

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 僕は今年1月まで、進藤さんたちと博物館主催の「豊かな中国山地写真コンテスト」の審査員をしていた。これまで29年、合併前の比和町時代から同じ顔ぶれの6人(途中から5人)で中国山地の自然や暮らしを切り取った写真を年1回、審査してきた。

広域合併の弊害というべきか、大庄原市が発足して幾度か中止の動きがあって、ついに30回を目前にした今年で幕を閉じた。残念というほかない。お役所は何事も予算次第である。ただ、博物館だけは維持していただきたいし、運営に当たる人材の確保も不可欠だろう。


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by shimazuku | 2018-08-23 15:06 | Trackback | Comments(0)

マツノ書店のこと 2018/08/14

 徳山市という自治体が消え、周南市になって、いまだに戸惑っている。そこで長く古書店を営んだ松村久さんが、10日に85歳で亡くなった。

 一度だけ、古書店仲間の会合に紛れ込んで同席したことがある。マツノ書店を訪ねたことは一度もない。松村さんのことは、徳山に勤務した先輩や同僚たちから何度も聞いていて、まるで旧知のような気分だった。

幕末の長州の鉄のことを調べていて、マツノ書店が復刻した『防長回天史』を手に入れ、反射炉を使った大砲鋳造や造船のことを丹念に読んだ。その前に、山口大学の先生が周防大島のハワイ移民について書いた本も、マツノ書店の出版だった。あれはいい本だった。

 宴席で、僕のそんな体験を話すととても喜んで、以後、年賀状のやり取りが始まった。

 きょう14日の中国新聞のコラムに松村さんをしのぶ一文が載っていた。個人的な印象だが、松村さんは山口県人にありがちな「維新自慢」をひけらかす人ではなかった。それどころか会津への悔恨の思いを抱き続けていたように思う。

 ついでながら、萩反射炉は試作炉ということで世界遺産に登録されているが、正確に言うと反射炉の先進地・安心院(大分県)の職人に騙されて築造したものである。そのことは安心院に行けば、石碑に刻まれて残っている。


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by shimazuku | 2018-08-14 09:46 | Trackback | Comments(0)