雨読メモ14/16「 『暮しの手帖』とわたし」 2016/07/04
広島北部の農村地帯には「どろ落とし」という女性だけの行事がある。田植えを終えて手足の泥を落とす集い。もうとっくに田植えは終わって、あと2週間もすれば稲穂が出ようかという時期だが、恒例のこの行事は6月末か7月はじめと決まっている。
かつては集落の女性全員参加だったが、最近は共働きが増えて出席者は高齢者ばかりになった。きょう4日がその「どろ落とし」。ワイフは迎えのバスに乗って、近場の温泉に出かけた。で、残っているのは僕一人。昼に何を食べるか、問題がないわけではないが、一人もいいもんだ。
************************
「『暮しの手帖』とわたし」(大橋鎭子著・暮しの手帖社・ポケット版3月刊)
『暮しの手帖』には色んな思い出がある。わけても家庭製品の商品テストは、使う身になってあらゆる角度からチェックして容赦ない評価を下した。
石油ストーブが出回り始めたころ、英国アラジン社の「ブルーフレーム」を国産の「ブルーファイア」と比較した報告では、今風に言うと「及びもつかぬコピー商品」と国産品をこき下ろした。今なら訴訟になりかねないが、『暮しの手帖』には広告がない。その矜持がこういうテストの報告につながったのだろう。
アラジンのストーブはその名の通り青い炎だった。ベンツやフォルクスワーゲンを扱っていたヤナセが輸入販売していて、さっそく買い求めた。難点はせいぜい6畳程度しか温められないことだった。でも替え芯はもちろんあらゆる部品を交換できた。新婚時代に買った2台目は耐震自動消火装置がついていた。もう50年近く前のことだ。
洗濯機、炊飯器はもちろんベビーカーのテスト結果もあって、それらを買うときはバックナンバーを読み返して商品を選んだ。
1980年代後半から定期購読をやめた。いまも物置のどこかに段ボール箱に入れたバックナンバーが眠っているはずだ。
この雑誌でいつも気になることがある。「暮し」は「暮らし」、「手帖」は「手帳」と書くのではないかという疑問。でも号を重ねるうち、慣れてしまった。もう1つ、疑問というほどではないが花森安治という編集長と大橋鎭子という発行人の関係がよくわからなかった。特に大橋という女性はどういう存在なのだろうかと常々思っていた。
いまNHK朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、その大橋鎭子さんが主人公である。たまに目にする程度だが、放送はまだ『暮しの手帖』出版前のようだ。
スーパー併設の本屋さんで見かけて買い求めた。ポケット版とあるから先に大版が発行されていたのだろう。いかにも『暮しの手帖』社らしい丁寧な装丁・製本で、章ごとのタイトルは『暮しの手帖』で見覚えのある手書きの文字。
一夜で読み終えて、すがすがしい気分になった。花森さんについては旧制松江高校の出身というので、僕が松江に勤務していたころに何度か彼のエピソードを聞いていた。大橋さんについてはこの本で初めて知ることばかりだった。
父亡きあと母と3姉妹で苦しい時代を生き抜き、はつらつとした仕事で新時代に挑戦する行動力がすごい。花森さんという厳しい編集長のもと母子4人も社員としてともに働いたというのが新鮮だった。シャンソン歌手の故石井好子さんの「先輩のこと」という巻頭エッセイもすばらしかった。発行人ご本人がモデルになって何度も写真に登場していたらしい。といっても料理のときの手だけとか商品テストで乳母車を押す写真などで、ご本人は「女優」ではなく専ら「手優」だったと書いている。
1958年というから高度経済成長が軌道に乗り始めたころ、米国務省の招きで視察旅行をした記録。日本へ送った手紙で構成されたこの旅行記は初めて触れるアメリカの表裏がきっちりと書かれていて読み応えがあった。読んでいて、全体にちょっときれいごとに過ぎるかなという印象がないでもない。でもいい雑誌を作り続けたものだと思う。
3年前の2013年、93歳で亡くなった大橋さん。『暮しの手帖』とともに生きた戦後女性のトップランナーのひとりだった。この本でそれを知って、胸のひっかかりがとれてすっきりした。
かつては集落の女性全員参加だったが、最近は共働きが増えて出席者は高齢者ばかりになった。きょう4日がその「どろ落とし」。ワイフは迎えのバスに乗って、近場の温泉に出かけた。で、残っているのは僕一人。昼に何を食べるか、問題がないわけではないが、一人もいいもんだ。
************************
「『暮しの手帖』とわたし」(大橋鎭子著・暮しの手帖社・ポケット版3月刊)
『暮しの手帖』には色んな思い出がある。わけても家庭製品の商品テストは、使う身になってあらゆる角度からチェックして容赦ない評価を下した。
石油ストーブが出回り始めたころ、英国アラジン社の「ブルーフレーム」を国産の「ブルーファイア」と比較した報告では、今風に言うと「及びもつかぬコピー商品」と国産品をこき下ろした。今なら訴訟になりかねないが、『暮しの手帖』には広告がない。その矜持がこういうテストの報告につながったのだろう。
アラジンのストーブはその名の通り青い炎だった。ベンツやフォルクスワーゲンを扱っていたヤナセが輸入販売していて、さっそく買い求めた。難点はせいぜい6畳程度しか温められないことだった。でも替え芯はもちろんあらゆる部品を交換できた。新婚時代に買った2台目は耐震自動消火装置がついていた。もう50年近く前のことだ。
洗濯機、炊飯器はもちろんベビーカーのテスト結果もあって、それらを買うときはバックナンバーを読み返して商品を選んだ。
1980年代後半から定期購読をやめた。いまも物置のどこかに段ボール箱に入れたバックナンバーが眠っているはずだ。
この雑誌でいつも気になることがある。「暮し」は「暮らし」、「手帖」は「手帳」と書くのではないかという疑問。でも号を重ねるうち、慣れてしまった。もう1つ、疑問というほどではないが花森安治という編集長と大橋鎭子という発行人の関係がよくわからなかった。特に大橋という女性はどういう存在なのだろうかと常々思っていた。
いまNHK朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、その大橋鎭子さんが主人公である。たまに目にする程度だが、放送はまだ『暮しの手帖』出版前のようだ。
スーパー併設の本屋さんで見かけて買い求めた。ポケット版とあるから先に大版が発行されていたのだろう。いかにも『暮しの手帖』社らしい丁寧な装丁・製本で、章ごとのタイトルは『暮しの手帖』で見覚えのある手書きの文字。
一夜で読み終えて、すがすがしい気分になった。花森さんについては旧制松江高校の出身というので、僕が松江に勤務していたころに何度か彼のエピソードを聞いていた。大橋さんについてはこの本で初めて知ることばかりだった。
父亡きあと母と3姉妹で苦しい時代を生き抜き、はつらつとした仕事で新時代に挑戦する行動力がすごい。花森さんという厳しい編集長のもと母子4人も社員としてともに働いたというのが新鮮だった。シャンソン歌手の故石井好子さんの「先輩のこと」という巻頭エッセイもすばらしかった。発行人ご本人がモデルになって何度も写真に登場していたらしい。といっても料理のときの手だけとか商品テストで乳母車を押す写真などで、ご本人は「女優」ではなく専ら「手優」だったと書いている。
1958年というから高度経済成長が軌道に乗り始めたころ、米国務省の招きで視察旅行をした記録。日本へ送った手紙で構成されたこの旅行記は初めて触れるアメリカの表裏がきっちりと書かれていて読み応えがあった。読んでいて、全体にちょっときれいごとに過ぎるかなという印象がないでもない。でもいい雑誌を作り続けたものだと思う。
3年前の2013年、93歳で亡くなった大橋さん。『暮しの手帖』とともに生きた戦後女性のトップランナーのひとりだった。この本でそれを知って、胸のひっかかりがとれてすっきりした。
by shimazuku
| 2016-07-04 09:58
| 雨読ノート
|
Trackback
|
Comments(0)