『喜多川歌麿女絵草紙』 2024/02/17
立春を過ぎたからといって、こんな暖かさが本物とは思えない。まだどこかに「冬」が逆襲の機会をうかがっているに違いない。そりゃそうだ。このまま春になったら冬将軍様の沽券にかかわる。
藤沢周平著『喜多川歌麿女絵草紙』(文春文庫・2012年新装1刷)
旧装版が書庫にあるのにあとで気づいた。また同じ本が2冊になった。記憶力が日に日に減退するのを自覚する。もう、こういう経験にも驚かない。さらに告白すると、読み終えてもまだ、これが既読書であるという記憶すら消えていた…。
美術には格別うとい僕が、一気に読み終えた作品。とりわけ、6編の小品のうちラストの「夜に凍えて」は、藤沢の真骨頂ともいえる細やかな文章だった。妻を失った歌麿が、14歳で弟子入りし、結婚、離婚のあと再び弟子に戻った女性に寄せる想いが、せつなくも美しい。
その女弟子との再婚を考えないでもなかった歌麿が、突然、彼女から商家の子連れ旦那への再嫁を告げられた驚き、失望。同じころ、版元・蔦屋重三郎から「最近の作品は、描く女の顔が同じだ」と面と向かって指摘された悔やしさと自責。老境を目の前に、自らの迷いと、生業への壁に直面し苦悩する絵師の心の襞。藤沢は、それを化粧筆で撫でるように柔かい筆遣いでつづる。
そういえば、引っ越し魔とうたわれた葛飾北斎を弟子の目で見て書かれた新作(作者・題名が思い出せない。確か卍という文字がタイトルにあった)では、謎の絵師・写楽は、世を忍ぶ北斎だとされている。一方、藤沢作品の写楽は謎のまま、細身の若い絵師として描かれる。二人の著者に共通するのは版元・蔦屋が幕府からの弾圧による苦境打開の奇手として写楽の役者絵を世に問うたという見方。
どちらにせよ蔦屋重三郎という男、絵師はもちろん、山東京伝、滝沢馬琴など今でいう小説家を育てて江戸庶民文化をはぐくんだ稀代の人物ではある。彼の評伝を読んでみたい。